料理茶屋の女

江戸に初めて料理茶屋らしきものが誕生したのは、明歴3年(1657年) の大火、いわゆる「振袖火事」の直後。浅草並木橋の「奈良茶飯」は、茶 飯、豆腐汁、煮しめ、煮豆などのセットメニューを出し、世界で最初の外 食の店といわれる。以降、本格的な日本料理を出す料理茶屋が増え、各藩 の留守居役や通人たちが、ひんぱんに利用することとなり、高級化してい った。向島の「葛西太郎(後の平岩)」、「大七」、「武蔵屋」は古地図 にも残っている。深川の「二軒茶屋」、「平清」、浅草今戸の「金波楼」 も有名。『詩は五山、役者は杜若(トジャク)、傾(ケイ)はかの、芸者おかつ に、料理八百膳』と、かの蜀山人に詠まれた「八百膳」は、今も続く江戸 第一の名料理茶屋である。

作品はそんな料理茶屋の仲居。江戸好みの縞の着物に、亀甲つなぎの鯨 帯を締めている。当時流行の“笹色紅”を、下唇にほどこしている。手に さげているのは銚子で、この時代の宴席には現代でいう“おちょうし”は まだ登場していない。   

※注 笹色紅 笹紅とも。文化年間(1804〜17年)の口紅の塗り方の流行で、上唇は淡くするが、 下唇には何度も塗って濃くし、笹色に光って見えるようにしたもの。これは当時口紅 が、紅花を原料としていたのであまりにも高価であり、そんな高価な紅をふんだんに 使っているのヨ、と見栄をはった化粧法。だが、一般女性はそんなことはできないの で、まず下唇に墨を塗り、その上に紅を塗れば、青みがかって見えたという。